全日本 プロレス 売上 19

佐藤光留 vs  大森隆男 日本武道館 について。プロレス試合結果データべース 新日本プロレス、全日本プロレス、uwf、fmw、全日本女子プロレスなど主なプロレス団体の試合結果を過去から現在まで熱戦譜として掲載しています。 【対戦カード】「AJP Prime Night 2020 〜年内最終興行〜」12月13日(日)後楽園大会一部対戦カード、CIMA選手参戦決定のお知らせ, 【対戦カード】「2020 世界最強タッグ決定リーグ戦」後半戦全対戦カード決定(12.4名古屋、5新潟、7後楽園), 【チケット情報】2020年12月13日(日)後楽園大会にて「Go To プロレス チケット」、「ご新規割チケット」販売決定のお知らせ. 青柳亮生 羆嵐 All right reserved. 2020 世界最強タッグ決定リーグ戦 The photograph and sentences used on this site cannot be used without permission. 青柳優馬 全女管理下. 公式戦 30分1本勝負 !パソコン、スマホで遊べる新感覚トレーディングカードゲーム!, 新日本プロレスリング株式会社は、安全を保証するものとして個人情報保護の国際規格:『TRUSTe』、国内規格『プライバシーマーク』の認証を取得しています。, 前号の著作物、意匠権および商標権を複製使用した玩具、スポーツ用品、衣類、飲食物、文房具、装身具、電気機械器具、時計、レコード、音声テープ、ビデオテープ、コンパクトディスク、レーザーディスク、DVD及び日用品雑貨の販売. サマーナイトフィーバー in 両国 WE ARE PRO-WRESTLING LOVE! 6人タッグマッチ Team NJPWの会員になると様々な特典がいっぱい! 青柳亮生 イザナギ 田中将斗 公式戦 30分1本勝負 ゼウス 下記よりこれから開催される予定の大会情報を確認できます。各大会のチケット情報ページに記載されているプレイガイドからチケットを購入することができます。 岡田佑介  大森隆男 シングルマッチ COPYRIGHT(C) ALL JAPAN PRO-WRESTLING Co., Ltd. 【対戦カード】「AJP Prime Night 2020 〜年内最終興行〜」12月13日(日)後楽園大会にて新設「全日本プロレスTV認定 6人タッグ選手権試合」開催決定のお知らせ, 【全日本プロレスTV】明日12日(木)の「全日本プロレス バトルライブラリー」は「2000 世界最強タッグ決定リーグ戦」を配信!. 田村男児  vs  岩本煌史 2020 世界最強タッグ決定リーグ戦 関本大介 !PRO-WRESTLING」をZEPP TOKYOで開催。普段は見られない覆面レスラーが多数登場した。好評につき2003年と2004年にはツアーとして開催。2008年12月23日に約4年ぶりに開催。また、ファン感謝デーや毎年6月10日に開催される「武藤祭」は非常に好評で、プロレスラーとお笑い芸人がタッグを組んで争われるF-1タッグ王座など、ファンに楽しんでもらえることを中心に構成されていた。さらに、武藤が司会を務めていた番組「武藤敬司☆SHOW」がきっかけで、対談した船木誠勝らが興行に関わったり、同じく対談した夏目ナナのプロデュース興行や[5]、吉沢明歩らが参加したセクシー女優とのコラボ興行を開催した。, 2002年11月17日、石井和義が率いる株式会社ケイ・ワンと協賛で、プロレス版Dynamite!として「ファンタジーファイトWRESTLE-1」を横浜アリーナで開催。第2弾は2003年1月19日に東京ドームで開催。武藤は「WRESTLE-1」の世界を「ファンタジーファイト」と表現した。この興行をフジテレビがプライムタイムで放送したが、サブタイトルは「ボブ・サップのプロレスエンターテインメントショー」と銘打たれ、プロレス中継というよりは当時人気だったボブ・サップを中心とした番組として放送された。, また、江崎グリコプロダクトマネージャーで全日本のコンディショニングコーチを務めていた桑原弘樹とゴールドジムの協力による、プロレスラー流のトレーニング方法やサプリメントなどの栄養学を参加者に公開する武藤塾を毎年開催しており、番外編として年に1度、新人オーディションを開催していた。, かつて全日本の主要大会と言えば日本武道館大会だったが、2004年2月22日を最後に撤退した。代わりに代々木第二体育館に加え、年1〜2回行われた両国国技館での興行「プロレスLOVE in 両国」では、プロレス界で初の試みとなる複数の企業から出資金を募り、1つのイベントを作り上げる製作委員会方式で開催。, 2004年4月、テレビ東京で約4年ぶりとなるテレビ中継番組「プロレスLOVE 〜夜のシャイニング・インパクト〜」が開始された。2005年3月以降は、両国大会のみ放映。, 2007年4月6日、「全日本プロレス マザー」がGAORAからの映像提供による放送で千葉テレビで開始。その後、岐阜・京都・神奈川でも放送された。また、地上波以外での全国規模の中継ではGAORAが毎週1回、土曜日更新(生中継や再放映有り)で録画中継している他、FIGHTING TV サムライでも随時中継している。GAORAの中継においてはFIGHTING TV サムライの協力を取り付けている。, 2011年5月29日、スーパーヘイトが試合後に嘔吐・昏倒したため病院に搬送され「急性硬膜下血腫」の診断を受け緊急手術が行われた。5月31日、VOODOO-MURDERSのリーダーのTARUが、試合当日にビジネス上での口論からヘイトを数発殴打した事を自ら会社に申告。6月1日、TARUの無期限出場自粛を発表すると共に、TARUがスーパーヘイトを殴打したとき控え室に居た河野真幸、稔、MAZADAの無期限出場停止処分とVOODOO-MURDERSの解散が発表された[注 4]。, 6月7日、一連の事件の責任を取り武藤が社長を辞任し(選手兼取締役としては留任)、取締役の内田雅之が第7代社長に就任。, 6月19日、レフェリーの和田京平が退団した。武藤が早急に謝罪会見を開かなかった事を批判したところ「会社への裏切り」と見なされ武藤から退団するよう求められたという。, 2012年11月1日、スピードパートナーズ(のちに、八丁堀投資へ社名変更)の社長を務めていた白石伸生が、全日本の株式を100%取得しオーナーになる。旧来の全日本プロ・レスリング株式会社を過去のコンテンツ版権管理などのわずかな役割を残した上で、資本金1億円で全日本プロレスリングシステムズを設立し事業内容を引き継ぎ、新しい運営会社としてスタートを切った[6]。, 白石はFacebookで過激な発言を繰り返し、槍玉として上げられた新日本プロレスなど外部の人間が抗議するなど反感を呼んだ。結果として全日本の分裂騒動に発展することとなり、新日本との関係が悪化する要因となった。2013年6月1日に新役員体制が発表され、社長を務めていた内田雅之が退任し白石が新社長に就任した[7]。一方、武藤敬司は取締役会長を辞任するとともに全日本を退団した[8]。, その後、武藤側は白石との間で全日本プロレスの株式の買い戻し等の交渉を進めていたが、交渉が不調に終わったことから退団者と新団体の旗揚げを示唆。全日本の選手とスタッフを中心に退団を呼びかけ、船木誠勝、河野真幸、KAI、真田聖也、中之上靖文、浜亮太、田中稔、カズ・ハヤシ、近藤修司、大和ヒロシ、アンディ・ウー、練習生全員、そして一部のスタッフが退団を表明[9]。一方で大森隆男、諏訪魔、ジョー・ドーリング、征矢学、SUSHIが全日本への残留を明言したほか、太陽ケア、レフェリーの和田京平が限定的ではあるが全日本へ復帰する方針を明らかにした[10]。, 2013年7月5日、新体制を発表し2月から全日本に参戦していた秋山準、潮崎豪、金丸義信、鈴木鼓太郎、青木篤志のバーニング5名が所属選手(秋山と金丸は13年ぶりに全日本復帰)となり、レフェリーの和田京平が名誉レフェリーという形で復帰した。白石伸生代表の下、13名(選手10名、スタッフ3名)で再出発することとなった。一方、武藤らは7月10日に新団体WRESTLE-1を旗揚げした。7月14日には、態度を保留していた渕正信が取締役相談役に就任する形で残留[11]。従前に比べ手薄となった選手層の補強は以後も積極的に行われ、9月1日付で曙が入団し、10月には練習生4名が入寮[12]。, 8月1日、スピードパートナーズ社内で全日株を保有することに反発した幹部たちに対し、白石オーナーは自身のスピードパートナーズ社の全株式を売却すると決定。同日、辞任の上スピードパートナーズ社は株式会社八丁堀投資に社名変更。同社の傘下企業だった全日本プロレスリングシステムズや、エステ・アパレルなど計5部門を自身の資産管理会社の株式会社レッドウォールジャパンに移し、全日本プロレスリングシステムズの新しい親会社となった[13]。9月11日付けで井上博太が代表に昇格し、白石前代表はオーナーとして後方支援を続けた[14]。また、2013年に全日本プロレスリングシステムズ株式会社によって出願された「全日本プロレス」の商標は、白石オーナーの株式会社アールワンが継承していた[15]が、2018年12月にオールジャパン・プロレスリング株式会社が譲渡を受けて保有している。, 2014年6月4日、秋山が7月1日付で自らが社長となる新法人を設立した上で、全日本の運営を全日本プロレスリングシステムズから引き継ぐ方針であることが明らかになった[16]。所属全選手が秋山に追従する方針である他、馬場元子も秋山を支援する意向を明らかにしている。背景には、2014年に入ってから所属選手へのギャラの支払いが滞り始めていたことがあるという[17]。一方、旧法人オーナーの白石は自らのブログで、資金面の問題について「選手、フロントに甘えがあったので、支援金額を1月から固定化した」「団体経営を理解させるための治療薬」と述べた上で[18]、新会社設立について「様々なスポンサーが設立時に出資しやすくするため」と語り、今後は数あるスポンサーの中の一社として団体を支援していく考えを明らかにしている[19]。, 7月1日、全日本プロレス・イノベーション株式会社と同社の完全子会社となるオールジャパン・プロレスリング株式会社が発足し、興行の運営会社とする形で秋山新体制をスタートさせた。全日本プロレス・イノベーションの事務所は山形県山形市のケーブルテレビ山形の社内に置かれ、通信放送やグッズ・ファンクラブ・ゲームキャラクターなどの企画・運営を行うコンテンツ会社としての役割を受け持ち、同社が10%の出資を行い、同社の吉村和文社長が会長に就任。オールジャパン・プロレスリングの事務所は7月7日に、もともと合宿所として使用していた横浜市青葉区の施設に移転するほか[20]、諏訪魔が取締役、馬場元子が取締役相談役に就任することが発表された[21]。, 2015年秋に入り、潮崎豪、曙、鈴木鼓太郎、金丸義信が相次いで退団を発表[22][23]。興行数が減少していることもあり、選手への給料を従前の固定給から試合の出場給に改める代わり、所属選手の契約形態を専属契約から「所属だが他団体への出場も自由」(いわゆる「専属フリー」)の形に変更する方針も明らかにされた[22]。また12月から、全日本プロレス・イノベーションとオールジャパン・プロレスリング両社間の関係が分離され、興行権がオールジャパンに完全移行された[24]。社長の秋山を除いた経営陣は11月末で退任し[25]、今後はオールジャパン・プロレスリングが中心となり経営を行っていくことになった。ただし、全日本プロレス・イノベーションはオールジャパン・プロレスリングの株式の34%を保有し続けており、関係は継続されている[24]。, 2016年9月30日、BS11にて「全日本プロレスイレブン」の放送開始を発表。毎月第3月曜日の23:00から23:30で、10月17日からスタートした。その後2回の放送日時変更を経て、2018年9月19日の放送をもって終了となった(全24回)[26]。, 2018年3月19日、インターネット動画配信サイト「全日本プロレスTV」サービス開始。主要カードの動画が見られるほか、大規模な大会では生配信も行う。, 秋山体制の5年間で、宮原健斗をはじめとする若手が台頭してきたことから、秋山が現場に専念するため、2019年7月8日付けで社長職を退任。後任に、オーナーとして携わってきた福田剛紀が新社長に就任した。当初、秋山に取締役会長を打診されたが、秋山自身の「現場でやりたい」という要望を受け、団体初のゼネラルマネージャーに就任することとなった。また、社外取締役に2AW取締役会長の十枝利樹が就任。一方で、2016年より取締役となっていた大森隆男が、選手活動に専念するため取締役を退任した[27][28]。, 2020年1月16日のプロレス大賞授賞式を最後に、秋山は取締役およびゼネラルマネージャーを退任[29]。5月9日、DDTプロレスリングのゲストコーチ就任を発表し[30]、6月27日、7月1日付でDDTへレンタル移籍することを発表[31]。前年にすべての役職を解任されたほか、年末に福田社長から若手の指導をTAJIRIに任せると告げられたことを秋山自身が語っている[32]。, 選手会長の諏訪魔は、いち早く「脱・秋山」を掲げた[33]。福田社長と直接会談に臨み今後の方向性を確認した[34]。, 将来有望な若手選手に、一流選手との対戦で更なる実力を発揮してもらうという育成の狙いから、トップクラスの選手を相手にした「番勝負」が実施されることがある。, 1976年から1979年まで3年がかりで行われた「ジャンボ鶴田試練の十番勝負」に始まり、2代目タイガーマスク(三沢光晴)が1986年から1988年にかけて行った「猛虎七番勝負」等を開催。ほかにも小橋健太、秋山準らも、この番勝負を経験してスターダムを駆け上がった。また、後に三沢が立ち上げたノアでも開催された。, 武藤敬司が社長に就いてからも、本間朋晃や諏訪間幸平が挑戦している。宮本和志は本間をパートナーにタッグマッチで挑戦。天龍源一郎は2003年に若手選手を鍛える目的のシングル七番勝負を行った。, 2019年、大森北斗がデビュー一周年を記念し、地元の北海道で「大森北斗 北海道試練の三番勝負」を実施。若手の番勝負としては約15年ぶりの開催となった。, 2020年、愛媛プロレス所属のライジングHAYATOが「ライジングHAYATO試練の3番勝負」を実施。他団体の若手に対しての実施は初[注 5]。, 有望な若手選手が複数人所属する時期に、不定期で開催されるシングルリーグ戦。過去5回開催された。, なお基本的に優勝しても特典はない(第2回大会のみ優勝者にチャンピオン・カーニバルへの出場権が与えられた)が、若手にとってはあすなろ杯優勝が初の栄誉となることが多い。, 2016年に開催していた若手主体興行。大日本プロレス主催の若手主体興行「D-RIZE」と隔月で交互に開催(奇数月が大日本主催、偶数月が全日本主催)[37]。12月20日の「AJ PHOENIX vol.6」をもって一区切りとすることになった[38]。試合会場は常時新木場1stRINGで行われた。, ジャイアント馬場体制から定着していたシリーズ名が、武藤敬司体制より一部変更されている。正月と10月に開催する旗揚げ記念大会「ジャイアント・シリーズ」は馬場のリングネームである「ジャイアント馬場」に、「シャイニング・シリーズ」は武藤の必殺技である「シャイニング・ウィザード」に、それぞれなぞらえていた。また「ホールドアウト・ツアー」は、武藤の入場曲の曲名にちなむ。, 武藤の退団後は、武藤にちなむシリーズ名は改称された(当時社長の秋山にちなんだ名称にもしていない)。, 後の調査で河野真幸、稔、MAZADAは暴行に関わっていないことが明らかになったため、6月30日付けで出場停止処分は解除された。, 同年1 - 3月に全日本プロレスの道場に住み込みながら継続参戦しており、一時的に所属選手同然の扱いとなっていた。. 入江茂弘 岩本煌史 売上高が分かるのは新日本プロレスだけながら、 公式サイトのアクセス数・ツイッターフォロワー数から考えても、 この団体の人気が突出しているのは確か。 続いて、 プロレスリングnoah; ddtプロレス; 全日本プロレス; が2番手グループといったところ。 全女管理下. 公式戦 30分1本勝負 ただし、全日本プロレス・イノベーションはオールジャパン・プロレスリングの株式の34%を保有し続けており、関係は継続されている 。 2016年 9月30日、bs11にて「全日本プロレスイレブン」の放送開 … 関本大介 vs 【全日本プロレスTV】本日の「全日本プロレス 水曜スペシャル」は全日本プロレス解体新書 大森隆男編 配信!! 2019年11月19日のブログ記事一覧です。全日の旗揚げからG馬場三回忌追悼興行までの記録です。当ブログの記事や画像を、ブログ等にそのまま転載する行為は禁止します。【昭和の全日本プロレス】 『Team NJPW』についての詳しくはこちらから, 新日本プロレス公式動画サイトNJPW WORLD(有料)にて新日本プロレスの主要大会を完全配信しております。 タッグマッチ 芦野祥太郎 入江茂弘 ジェイク・リー 公式戦 30分1本勝負 本田竜輝 シングルマッチ 第19戦、10月21日松本市総合体育館観衆3500人タッグマッチ60分1本勝負スタン・ハンセン(1-0)ジャイアント馬場ワンマン・ギャングジャンボ鶴田①ギャング(7分44秒片エビ固め)鶴田ギャングが鶴田をハンセンめがけて振り、ハンセンがウエスタン・ラリアットを決めギャングがフォール。 vs vs 全日本プロレス(ぜんにほんプロレス、英: ALL JAPAN PRO-WRESTLING、略称: AJPW)は、日本のプロレス団体。運営会社はオールジャパン・プロレスリング株式会社。, 1971年12月、アントニオ猪木が日本プロレスの経営改善を下にクーデターを画策したとして、日本プロレス選手会を除名され日本プロレスを永久追放された(詳しくは「密告事件」を参照)。その余波が、日本プロレスのテレビ中継に波及することとなった。当時は、日本テレビとNETテレビ(現:テレビ朝日)の2局放映体制であった(詳しくは「BI砲の時代」を参照)。NETテレビの看板選手であった猪木を日本プロレスの内部事情で失ったことで、NETテレビはこれまで日本テレビとの関係からNETテレビの中継に出場できなかったジャイアント馬場の出場を強硬に要求し、日本プロレスの幹部は日本テレビとの取り決めを破り、馬場のNETテレビの中継への出場を解禁。このため、日本テレビは「契約不履行」を理由に日本プロレス中継の打ち切りを決定。極秘裏に報復手段に近い形で、日本テレビと関係が近かった馬場に接触して独立を促す。日本テレビから「旗揚げに対しての資金は全て日本テレビが負担する」「放映権料も最大限用意する」「馬場がいる限り、プロレス人気が下火になっても放送は打ち切らない」等の好条件が提示され[2]、それを受けて馬場もまた独立へ向けて準備を進める形となった。, 1972年7月29日、馬場は日本プロレスを退団し新たなプロレス団体を設立することを表明。日本テレビのバックアップを受ける形で渡米しサーキットを行い、その上でドリー・ファンク・シニア、フリッツ・フォン・エリック、ブルーノ・サンマルチノなどの有力者に接触して協力を要請し、豪華外国人選手の招聘に成功。日陣営も「親馬場派」ともいえる大熊元司、マシオ駒、サムソン・クツワダらを確保。この中でも日本プロレスの若手選手であった百田光雄、取締役兼リングアナウンサーとして百田義浩に加え、役員として力道山未亡人の田中敬子も旗揚げに参加したことで「力道山(百田)家のお墨付き」を得ることにも成功[注 1]。日本テレビや百田家の後ろ盾、外国人選手の招聘ルート開拓に成功した全日本プロレスに対し、日本プロレスは過去に東京プロレス、国際プロレス、新日本プロレスに行ったような外国人レスラーの招聘妨害や会場使用を出来なくするような妨害工作を行う事が出来ず、興業の目玉である馬場を失った日本プロレスは一気に弱体化する事になる。, さらに、手薄な日本人陣営をカバーするため、国際プロレス代表取締役社長の吉原功との会談でサンダー杉山を獲得し、当時若手選手であったデビル紫、鶴見五郎らが参戦して国際プロレスとの協調路線をしばらく維持。馬場ら全日本勢も協力の見返りとして、しばしば国際プロレスの興行に参戦した。, 馬場は将来の投資として、旗揚げ直後にミュンヘンオリンピックレスリング日本代表であった鶴田友美(リングネーム:ジャンボ鶴田)を獲得。渡米修行から1年後の国内デビュー以降タイトルに頻繁に挑戦させるなど、将来のエース候補として英才教育を受けさせた。また、ザ・デストロイヤーが手薄な日本人陣営に助っ人として加わり、1979年まで約6年半にわたり定着参戦。馬場に次ぐ看板選手として、初期の全日本の興行活動に貢献。, 1973年4月、日本プロレスが崩壊し、最後まで日本プロレスに残留した大木金太郎ら9名の日本プロレス残党は「力道山家預かり」となることを発表。その過程で、日本テレビや力道山家の意向などもあり大木ら9選手は全日本へ合流する形となったが、馬場は当初から大木らの受け入れには難色を示していたとされている。そのため、馬場はマッチメイクなどで「旗揚げからの所属(子飼い)組」と「日本プロレスからの合流組」との間で扱いに格差を付けていた[注 2]。この扱いに対して上田馬之助と松岡巌鉄が反発し、10月9日に退団[注 3]、次いで大木も、1974年1月のシリーズを無断欠場して全日本から一時撤退。, ジャイアント馬場が培ったアメリカ(主にNWA)での人脈を生かし多くのスター外国人選手を招聘するなど、力道山の時代の「日本人選手対外国人選手」の系譜を受け継いだ。新日本プロレスのストロングスタイルに対し、アメリカン・プロレスの源流に重きを置いた。この時期に鶴田を輩出してミル・マスカラスやテリー・ファンクなどアイドル的な人気を博したベビーフェイスの外国人選手も登場。1977年、世界オープンタッグ選手権に端を発するザ・ファンクスとアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク組の流血の抗争劇も人気を呼んだ。, 1981年、新日本との引き抜き合戦が勃発。5月にブッチャーが引き抜かれるが、全日本も7月にタイガー・ジェット・シン、12月にスタン・ハンセンを引き抜く。また、馬場や鶴田に次ぐ選手として天龍源一郎や大仁田厚らも台頭。馬場が年齢を理由にタイトル戦線から退いた後は「明るく、楽しく、そして激しく」を掲げ、日本人選手の対戦が主軸となった。その他、中継権を持っていた日本テレビと関連が特に深い時期であり、一時馬場が会長職に退き、日本テレビの役員だった松根光雄が出向の形で全日本の社長ポストに就いていた(馬場は松根の退社後に社長に復帰)ほか、大八木賢一(後に全日本専務、ノア専務)など多くの日本テレビ関係者が、出向で全日本に在籍[4]。天龍を中心に「見る者にも、痛みの伝わるプロレス」が繰り広げられた。, 1984年、新日本を離脱した長州力らジャパンプロレスの選手が参戦したが、その後ジャパンプロレスが分裂し、長州力らが新日本に戻ったのをきっかけに天龍は阿修羅・原と「天龍革命」を起こし鶴田、ハンセン、ブルーザー・ブロディらとタイトル争いを演じた。, 1987年、ハル薗田が新婚旅行を兼ねて南アフリカへ試合のために向かう途上、航空機の墜落事故に遭遇し、不慮の死を遂げた。薗田は31歳というこれから脂の乗ってゆく年代の選手であるだけに期待されており、マシオ亡き後の若手に対するコーチ役を務めていたことから、組織としても痛手となった。, 1988年、長く待望されていた3つのヘビー級王座の統一が図られるが、決定戦のたびに引き分けや不透明決着に終わる。, 最初の統一戦から約1年が経過した1989年4月16日、後楽園ホール大会におけるメインイベントの鶴田対ハンセン戦も反則裁定に終わり、ついに激怒したファンが暴動寸前にまで陥る。三冠統一は4月18日、鶴田により成されたが、これがきっかけとなって全日本の試合からあからさまなリングアウト・反則裁定が排除され、技による完全決着がつけられるようになる。これが後の鶴田対超世代軍、四天王の激戦を呼ぶ伏線となった。, 1990年、天龍源一郎をはじめとする多くの選手がSWSに移籍して存続が危惧される。だが、2代目タイガーマスクとして活躍していた三沢光晴が率いる「超世代軍」が鶴田に挑む構図が生まれ、新たなブームを引き起こす。鶴田が率いる正規軍、三沢が率いる超世代軍、それに外国人選手との戦いが主軸となった。, 1992年、鶴田が病気のため一線から退くと、三沢光晴・川田利明・小橋健太・田上明の「プロレス四天王」による戦いが中心となり「四天王プロレス」と呼ばれる形へ発展。ジャパンプロレスのハイスパートレスリング、天龍革命によってもたらされた激しいプロレスを出発点とする危険度の高い技を次々と繰り出すスタイル(詳しくは「王道プロレス」を参照)は先鋭化し続け、テレビ解説をしていた馬場に「高度すぎて俺には解説できない」と言わしめるほどだった。この時期に空前絶後の利益をおさめ、年間7回の日本武道館大会を中心に経営的な成功を勝ち取る。日本武道館大会は、1990年代全般でプレイガイド発売即チケット完売となるほどの人気で1998年には東京ドームで初興行を開催。「王道プロレス」のキャッチコピーが浸透。, 1999年1月31日、馬場が死去。5月7日、三沢が社長に就任。馬場存命中には行わなかったビッグマッチでの大胆なカード編成を試みた。また三沢、仲田龍らは、新日本などで行われていた花道やレーザー光線などを使った華やかな演出を提案し続けた。しかし、伝統の保持を第一優先と主張する馬場夫人である馬場元子との軋轢が生じ、社長を解任された。その結果、元子と馬場の姪である馬場幸子、渕正信を除く全役員が辞任。, 社長解任後、三沢を含めた選手26名、練習生1名、大半の職員が全日本を離脱してプロレスリング・ノアを設立(詳しくは「三沢光晴の経歴」を参照)。その後、日本テレビは全日本プロレス中継を終了し、所持していた全日本プロレスの株式も手放す。放送枠は「コロッセオ」を経て「プロレスリング・ノア中継」に切り替えた。, 全日本プロレスに残留したのは川田、渕、レフェリーの和田京平、リングアナウンサーの木原文人、広報1名、そして馬場元子の6名となった。後に川田は、馬場亡き後は全日本にはフリーとして上がっており専属契約はしていないことを告白しているが、2004年までは全日本の役員に名を連ねていた。その他は、留学という形での参戦だったマウナケア・モスマン(現:太陽ケア)、当時は元参院議員として衆院選活動中でプロレス復帰も流動的な馳浩のみだった。, その後、天龍の全日本復帰やフリー・他団体の選手、馬場時代からの常連外国人選手の参加により運営を維持していた。また、この時期に川田と渕が新日本の興行に出場。, 2001年1月28日、東京ドーム大会で武藤敬司が全日本に初参戦。ケアに勝利した後に共闘し、BATTを結成。その後、新日本所属選手としては初となる三冠ヘビー級王座・世界タッグ王座を獲得し、さらに年末の世界最強タッグ決定リーグ戦も制し、プロレス大賞最優秀選手賞(MVP)を受賞した。武藤は、同年の日本武道館大会の全6大会すべてのメインイベントを務めた。, 2002年2月26日、新日本を退団した武藤、小島聡、ケンドー・カシン、WWF(現:WWE)を退団したカズ・ハヤシが移籍。, 武藤の社長就任直後は三沢社長時代と同様に株式譲渡が無く、再びオーナーとサラリーマン社長という形での軋轢が生じた。その後、渕正信とレフェリーの和田京平ら生え抜き役員が武藤側に回り、渕・川田・和田の連名で武藤への株式譲渡懇願書を馬場元子に提出。武藤には無償で株式が譲渡され、馬場元子はオーナーを退き、事務所を六本木から移転。シリーズ興行の定番タイトルだった「ジャイアント・シリーズ」などを変更、WWEでエージェントを行っているジョニー・エースとの繋がりで、ジャマールらWWEを解雇されたレスラーが多く参戦して全日本の伝統である「日本人選手対外国人選手」を受け継ぎつつ「明るく、楽しく、激しく、新しい」プロレスをメインコンセプトに、馬場全日本のカラーだった「王道プロレス」に代わる「パッケージプロレス」を提唱、実践していることが武藤全日本の特徴であった。, 通常の興行は、橋本真也が率いるプロレスリングZERO-ONEとの団体対抗戦後、TAKAみちのくが率いる「RO&D」が参戦。その後、TARUが率いる「VOODOO-MURDERS」、佐々木健介・中嶋勝彦の「健介ファミリー」、鈴木みのる・NOSAWA論外・MAZADA・TAKEMURA・高山善廣に太陽ケアを加えた「GURENTAI」の定期参戦、元大阪プロレスの菊タロー、大相撲第64代横綱の曙らの参戦により、新たなファン層の獲得にも成功する。, 特別興行では、2002年6月9日にA BATHING APEとのコラボレーションによる「BAPE STA!

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