与謝野晶子 短歌 弟 6

きらきら輝く太陽と、空の青さが到来を教えてくれる夏の季節。そんな夏は、海や山へ出かけたり、お祭りや花火大会を楽しんだりと、素敵なことがたくさん詰まっている季節です。 夏、この季節に人々は何を感じ、どんな歌を詠んできたのでしょうか。 短歌で辿る与謝野晶子|感情のままに描かれるその作風とは 与謝野晶子は短歌を読んだ人として広く知られていますが、それだけではなく社会評論を行ったり、「母性保護論争」を繰り広げたりと様々な業績を持っています。その多岐にわたる活動を含めた晶子の生涯を詳しく描いている一冊です。 おすすめ映画 華の乱 Copyright© 短歌のこと , 2020 All Rights Reserved Powered by STINGER. 与謝野晶子 2019.12.10 2019.12.13 21kiko. その作風は当時こそ賛否両論を集めましたが、現代になって読んでみるといかにも感情に訴えかけてくるものが並び、, 「当時の人たちも心のどこかでは、こういった作品を求めていたのだろうな」という思いにさせられます。, 言葉を交わすよりも体を重ねてしまったほうが、分かり合えることもある…といわんばかりです。, みだれ髪にはこのような性的な描写が随所に登場し、そういった表現がタブーとされていた明治の世においては非常に斬新なものでした。, そのため批判する人が多かったことも否めませんが、晶子としてもそれは重々に承知していたことが、以下の句からはっきりとわかります。, 意訳すると「年ごろの女の子の唇に、甘くて刺激的な恋の味を味あわせたい」という感じでしょうか。, 前述の性的な描写にしてもそうですが、年ごろの女性にとって、恋愛は刺激の強い一面が付き物です。, それを晶子が“毒”と承知のうえで表現したのは、世の女性に新しい価値観を芽生えさせたい想いがあったからでしょう。, みだれ髪も一部から反感を買った作品ではありましたが、それ以上に非難を浴びることになったのが、1904年に発表された『君死にたまうことなかれ』です。, この作品は日露戦争に駆り出された弟の無事を祈ることが大筋ですが、途中、天皇陛下に対する批判と見られる部分があったため問題視されることになります。, すめらみことは 戦ひに おほみづからは出でまさね かたみに人の血を流し 獣の道に死ねよとは 死ぬるを人のほまれとは 大みこころの深ければ もとよりいかで思されむ, 現代風に訳すと「天皇陛下自身は戦場には行かないのに、国民に血を流させ、戦いのなかで死ぬことを名誉といわれるのですか?あなたが寛大であればそんなことは考えもしないでしょう」という感じです。, これは日本が戦争をしないと決めた現代においては正論のように思えますが、当時は国民のほとんどが戦争に賛成する押せ押せムード。, 案の定晶子はバッシングを受け、特に当時の著名な作家・大町桂月おおまちけいげつとの記事を通しての批判合戦は注目を集めました。, 「国賊だ」と批判してきた桂月に対し、晶子は「自分の気持ちを正直に表現しないものなど、歌ではない」とやり返したのですから、根性がすわっています。, 結婚した当時こそ、自分が稼ぎ頭にならなければいけなかった晶子ですが、晩年は夫の収入も安定し、40代に入ってからは趣味の温泉巡りに没頭しました。, 「出羽」というのは現在の山形県・秋田県のことで、これは山形県の温海温泉に訪れた際の一句です。, 「降りしきる雨のなか、朝市で商売に勤しむのはほとんどが女性である」というこの歌は、どこか女性も経済の一端をたしかに担っているという主張のようにも感じます。, このころに初の男女共学の学校設立に携わり、女性の社会進出を訴える評論なども発表するようになっていた晶子は、ゆったりと温泉巡りをするその最中でも、自分の命題について考え続けていたのでしょう。, 栃木県の北温泉に訪れた際、詠まれたこの歌は、いかにも人知れずひっそり佇む温泉宿を目指しているような雰囲気。, そう、晶子の温泉巡りは有名どころのみならず、知る人ぞ知る秘境の温泉まで、全国を余すところなく巡られているのです。, 上記の歌から、温泉に浸かるだけでなく、辿り着くその道すがらも楽しみになっていたことが伝わってきます。, ちなみに北温泉は当時こそ秘境とされていたものの、2012年公開の映画『テルマエ・ロマエ』のロケ地になったことで、現在はかなり有名になりました。, 群馬県の伊香保温泉を訪れたときの一句には、恋に身をゆだねた時代に想いを馳せる晶子の様子が描写されています。, 「赤城山が動く」という表現は、「思い出すと今でもドキドキして、風景が揺れているように見える」ということでしょうか。, それほどに情熱的な恋だったからこそ、みだれ髪で見られた過激な表現にもなり得たのでしょう。, なんにしても、晩年になってもその胸の高鳴りを思い出せる夫婦仲だったことは微笑ましいですね。, 歌人として台頭してきた当初こそ、世間から反感を買うようなアグレッシブな内容が多かった与謝野晶子の短歌。, またそういった経緯を知ったうえで晩年、穏やかになりつつも、彼女らしさが残る作品を味わうと、一層感慨深いものがあります。, ① 『みだれ髪』の性的な表現は物議をかもしたが、短歌界の革新を起こした。狙い通り?, 戦争もしなくなり、社会に出て活躍する女性もうんと増えた現代の日本を晶子が見れば、きっと浮かばれた気持ちになるはずですね。, 与謝野晶子の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。 「くしの日」与謝野晶子の短歌 その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな, 明けくれに昔こひしきこころもて生くる世もはたゆめのうきはし 与謝野晶子【日めくり短歌】, やわ肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君 与謝野晶子 意味と現代語訳. 与謝野晶子さんが反戦主義者をやめたきっかけに入る前に、移り変わっていった与謝野晶子さんの思想や発言について見ていきたいと思います。, 前述のように『君死たもう事なかれ』という詩が反戦詩ということは明白なので、そこに追随して、与謝野晶子=反戦主義の人という教育を我々日本人の大半はおそらく受けてきました。, 画像:http://norinori123.otemo-yan.net/e1072334.html, 与謝野晶子さんに戻すと、弟の出征を悲しみ無事を祈り、戦争について疑問を持つ反戦主義を掲げる文壇の人。何となくこれだけが「=与謝野晶子」としてひとり歩きし続けてきた状況です。, けれども実際は、独り歩きするのは「作品」の方であり、人物というものは日々変化していくものであるというのが真実のようです。, 1904年の『君死たもう事なかれ』の発表からわずか6年の1910年(明治43年)、第六潜水艇の沈没事故の際に与謝野晶子さんが詠んだ歌は、, 訓練中に遭難した第六号潜水艇の佐久間勉艇長以下14名全員が配置に就いたまま殉職していたことを悼み、「なすべきことを成し遂げる責任感」としてその後、小学校の修身科教科書にも用いられ、子供たちにもその精神が教えられていったそうです。, 次に、1914年7月から1918年11月の第一次世界大戦の際は与謝野晶子さんは『戦争』という詩のなかで、, さらに与謝野晶子さんの四男(1913年2月生)のアウギュストこと昱(いく)は海軍大尉だったということです。彼の出征に際し、与謝野晶子さんは弟を泣いた時とは別の心境で詠っています。, この歌は息子・アウギュストこと昱が出征するときに与謝野晶子さんによって詠まれたものです。短歌雑誌『冬柏』1942年1月号に載ったものだそうです。, 画像:https://todayssp.universal.jp/today/?p=3862, ですから、論点②「与謝野晶子は反戦主義者か?」に関しては「時期によって変化していった」というのが最も適切な答えなのではないかと思います。, どうしてこんなに真逆の思想へと変わっていくことになったのか?とても不思議な気がします。, ここからは私の推測になりますけれども、与謝野晶子さんは大町桂月さんから批判されたことを、この騒動が終結した後も、おそらく数年間は心の中で「保留」しながら、温めていたのではないかと推測します。, 与謝野晶子さんは、その9歳年上の歌人が血眼で批判してくる「違和感」について、ずっと腑に落ちないものがあり、何度も振り返りの作業をしたのではないかと感じます。実際、大町桂月さんからのその言葉は非常に強烈なものでした。, 「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」, と激しく非難したが、夫・与謝野鉄幹と平出修の直談判により、桂月は「詩歌も状況によっては国家社会に服すべし」とする立場は変えなかったものの、晶子に対する「乱臣賊子云々」の語は取り下げ、論争は収束する。この後、1925年(大正14年)6月11日、桂月は57歳で病没するが、『横浜貿易新報』に晶子は追憶をよせた。引用元:Wikipedia, この辺りに関しては現代の日本も引き続き後を引いている議論だとは思います。ですからこの与謝野晶子さんの言葉と大町桂月さんの言葉にはそれぞれの考え方があるとは思います。, 私がこの二人の歌人の話を知って思い出したのは、このお二人の言葉です。まずは初代内閣総理大臣の伊藤博文さんの言葉。, ここの解釈は各人に任せたいと思いますが、調べていった限り、転機となったのはやはり同じ歌人でもあり、同時代を生きる歌人であった大町桂月さんからの批判だったのではないかと改めて感じます。(主観), 同じ歌人としての時代特有の風景、生きにくい境遇を共有し、同じ「表現」に携わる者として切磋琢磨している人からの全く視点の異なる見解、対岸に居る「違和感」。, ここの違和感にずっと与謝野晶子さんがこだわったのは、私の推測ですが、与謝野晶子さんの文学的感性にとって大町桂月さんの言葉には「突き刺さってくる何か」が確実に存在したからだと思います。, そこの世界で大きな共感やつながりを覚えるのになぜ?「政治思想的」には対岸に居るのか、自分を不思議に思ったからなのではないかと思います。, そんな風に与謝野晶子さんを思わせたかもしれない大町桂月さんの作品の詩をひとつご紹介。, そして、辞世の句とされる青森県十和田市にある蔦温泉で詠まれた大町桂月さんの句がこちら。, そして、批判の騒動が鎮火した後は、大町桂月さんは与謝野晶子さんの作品を評価し、以降親交も深く、1925年に大町桂月さんが亡くなった際には与謝野晶子さんは『横浜貿易新報』(※現在の神奈川新聞)に追悼文を寄せています。, 画像:http://touyoko-ensen.com/syasen/sibuyaku/ht-txt/sibuyaku10.html, しかし、よく考えてみると、大町桂月さんが「以降与謝野晶子さんの作品を評価した」というのは当然で与謝野晶子さんの作風自体が、反戦思考から大町桂月さんの根ざしていた「国粋主義」的なナショナリズム維持の方向性へ寄ってきたためだと言えます。, もう一つ、与謝野晶子さんは明治の封建的な国家や家族制度について幼少期から苦しめられており、女性の自立と解放、女性の参政権獲得を強く主張していました。また、政治評論や教育問題についても評論を書いています。, 弟が戦争から無事に帰ってきた理由の一つに「学問があった」というところがヒントになったのかもしれません。「学問」があれば、特別な仕事が与えられる。, そこから与謝野晶子さんは女性の自立というものを一旦のゴールで考えた時に、 女性が「教育を受け」「仕事を得て」「参政権を獲得できる」というところが必要だと考えたのかもしれません。, そして、「女性が教育を受ける」という状況を可能にするのは「国が強く、豊かでなければ実現しない」という現実に気づいたのです。世界中どこの国でも国力の弱い国家では、女性に教育や選択肢など与える余裕はないのです。, 1911年9月1日「青鞜」創刊号が出た日、与謝野晶子さんは女性解放運動を祝していたそうです。, 山の動く日来る。 かく云えども人われを信ぜじ。 山は姑く眠りしのみ。 その昔に於て 山は皆火に燃えて動きしものを。 されど、そは信ぜずともよし。 人よ、ああ、唯これを信ぜよ。 すべて眠りし女今ぞ目覚めて動くなる。, 一人称にてのみ物書かばや。 われは女ぞ。 一人称にてのみ物書かばや。 われは、われは。, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。, Sorry, you have Javascript Disabled!

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