エウアンゲリオン テス バシレイアス 4

号外1950.6.6 共産党中央委全員追放24名 オウム資料 地下鉄サリン事件直後・配布紙⑤ 昭和28年12月9日読売 北鮮急進分子を逮捕 平和寮 オウム資料 麻原・サリン事件直後ビラ 週刊朝日1954 ヤロビ農法を検討する 週刊読売1953 行方不明者を洗う オウム資料 広岩近広に抗議する!チラシ アヂ・プロNo.17 1950年 日共岡山県委員会 日本週報1953 赤い孤島 ソ連代表部 昭和29年7月15日東京 首謀に懲役五年 焼打ち事件判決 日本週報1954 白い墓標 東大細胞の告白 通達640号 1950.12.11 社会主義新聞について 通達第652号 1950.12.26 松川・三鷹の大陰謀 オウム資料 『サンデー毎日の狂気』チラシ 日共運輸系機関紙1950『抵抗』NO.2 通達638号 1950.12.2 対日講和問題マリクソ連代表 通達639号 1950.12.5 原爆使用反対運動展開 昭和29年8月27日日経 日共 神山氏ら除名 昭和29年6月12日産経 即時廃校見合せ 朝鮮人学校 昭和29年7月25日毎日 日本に夜の赤色部隊 オウム資料 麻原彰晃―私達は推薦します! サンデー毎日1954 反米総まくり反響集 昭和27年8月22日読売 朝鮮学校 私は◯◯◯と呼ぶ 昭和29年6月19日毎日 証明書は個人的手紙 李浩然 鈴木一 金属東京・号外 1950年 斗争報告 1951方針 全貌1952 共産拠点の全貌 『「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」──あのラジオ放送が甦る』と、「Internetオウム真理教」にあったので、オウムに先駆けて、私がそれをやることにしました。「「オウマーの世界(The AUMer)」」始まっていらいのマルチメデイア(爆笑)版です。 まず第1回は、1994年12月24 オウム資料 極智新聞2号8面 昭和29年7月23日毎日 日共・拡大する平和闘争 公安調査庁 昭和29年7月23日朝日 松川事件 最高裁で打合せ 革命戦士No.18 1950年 日共中国地方委員会 オウム真理教(オウムしんりきょう、AUM truth teach)は、麻原彰晃を教祖とするかつて存在した日本の新宗教団体。1988年から1995年にかけて、オウム真理教事件を引き起こし、1996年(平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴いオウム真理教という名称は消滅した。, 破産とほぼ同時に、新たな宗教団体アレフが設立され、教義や信者の一部が引き継がれた。アレフは、後にアーレフを経てAlephに改称され、また別の宗教団体であるひかりの輪、山田らの集団、ケロヨンクラブが分派した。, 地下鉄サリン事件を筆頭に、現世人の魂を救済する「ポア」を大義名分として、組織的に数多くの殺人事件を起こした新宗教団体である[5]。教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)は、「ヒマラヤで最終解脱した日本で唯一の存在で空中浮揚もできる超能力者であり、その指示に忠実に従って修行をすれば誰でも超能力を身に付けることができる」、などと謳い若者を中心とする信者を多く獲得した。教義的にはヒンドゥー教や仏教、さらにキリスト教といった諸宗教に合わせ、1999年に世界に終末が訪れるとするノストラダムスの予言など、終末論が交錯していた。麻原自身は釈迦の教えを忠実に復元したとしていたものの[6]、実際のところ麻原にとって都合の良いものとなっていた。, 当初はヨーガを学ぶ和気藹々としたサークルに過ぎなかったが、次第に常軌を逸した行動が見え始め、出家信者に全財産をお布施させたり、麻原の頭髪や血、麻原の入った風呂の残り湯などの奇怪な商品を高価で販売するなどして、多額の金品を得て教団を拡大させた。内部では奇怪な商品の売付けや過激な修行で懐疑的になって逃走を図った信者を拘束したり殺害するなどして、1988年から1994年の6年間に脱会の意向を示した信者のうち、判明しているだけでも5名が殺害され、死者・行方不明者は30名以上に及び、恐怖政治で教祖への絶対服従を強いていた。, 麻原は、若いころに1960年代から1980年代にかけて急成長した宗教団体GLAの教祖でる高橋信次の著書を愛読していた。のちの上祐史浩と大田俊寛との対談によれば、オウムの活動の最終目的は「種の入れ替え」であり、それは教団の上層部において、ある程度共有されていた。麻原の世界観では、人類全体が自らの霊性のレベルを高め、超人類や神仙民族と呼ばれる存在に進化する「神的人間」と、物質的欲望におぼれ動物化していく「動物的人間」の2種類に大別され、現在の世界は「動物的人間」がマジョリティを占めており、他方、「神的人間」はマイノリティとして虐げられている。この構図を転覆しようというのが、「種の入れ替え」であり、オウムでは数々の修行やイニシエーションによって、「神的人間」を創出・育成し、同時に人類の霊性進化の妨げとなる「動物的人間」を粛清する目的で、70トンのサリンを製造し、日本をサリンで壊滅させた後に「シャンバラ」や「真理国」と呼ばれるユートピア国家を樹立しようという最終目標を持っていた[7]。, 「出家」や高額の布施を要求し信者の親族その支援者と揉め事が多く、当初より奇抜、不審な行動が目立ったため、信者の親などで構成される「オウム真理教被害者の会」(のちに「オウム真理教家族の会」に改称)により、司法、行政、警察など関係官庁に対する訴えが繰り返されたが、取り上げられることなく、その結果、坂本堤弁護士一家殺害事件をはじめ松本サリン事件、地下鉄サリン事件などのテロを含む多くの反社会的活動(詳細は「オウム真理教事件」を参照)を起こした[8][9] ほか、自動小銃や化学兵器、生物兵器、麻薬、爆弾類といった教団の兵器や違法薬物の生産を行っていた[2]。, 第39回衆議院議員総選挙での真理党の惨敗もあり、最終的には、麻原に帰依しない部外者を「ポア」により「救済」するとして、国家転覆計画すらも実行するようになった。その到達点と言える1995年3月20日の地下鉄サリン事件は、宗教団体が平時の大都市を狙い複数箇所を強力な化学兵器で同時多発テロを起こすという過去に類のない事件であり、比較的治安の良い戦後日本で起きたことも含めて、日本国内だけでなく、世界にも大きな衝撃を与えた(海外ではTokyo Attack等と称された)。, 1996年(平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴い「オウム真理教」としては消滅した(2009年に破産手続きが終了した)。同時に、新たな宗教団体「アレフ」が設立され、教義や信者の一部が引き継がれた。アレフは後に「Aleph」と改称され、また2007年(平成19年)5月に上祐史浩を中心とした別の仏教哲学サークル「ひかりの輪」が、2014年(平成26年)〜2015年(平成27年)頃にAleph金沢支部の山田美砂子(ヴィサーカー師)を中心とした「山田らの集団」と呼ばれる分派(自称ではない)が結成された。また、既に目立った活動はなく崩壊したと見られているが、北澤優子により「ケロヨンクラブ」なる組織が分派して結成されていた時期もある。, 2018年には麻原をはじめとした幹部達の死刑が執行されたが、Alephを中心に未だに麻原信仰は根強く、後継組織の施設周辺は抗議の看板が掲示されるなどしている。2020年現在も日本の公安調査庁は団体規制法により後継団体の動向を監視している。公安調査庁の調査では、米国政府、欧州連合(EU)、オーストラリア政府、カザフスタン・アスタナ市裁判所、ロシア連邦最高裁判所からテロリストの認定を受け、各国で活動を禁止されている[5]。, 麻原の三女松本麗華は、マスメディアではオウム真理教出家者が高学歴のインテリばかりで構成されていたかのようなイメージで報道されたが、実際は一般社会に居場所を無くした構成員も多かったと語る。例えば、普通に生きていくことに疑問を生じたり、居場所が無かったりした人や、DV被害者、被虐待児、精神疾患、発達障害、パーソナリティ障害などの社会的弱者が少なからずいたという[10]。, 「オウム(AUM)」とは、サンスクリット語またはパーリ語の呪文「唵」でもあり、「ア・ウ・ム」の3文字に分解できる。これは宇宙の創造・維持・破壊を表しており、その意味は「すべては無常である」、すなわちすべては変化するものであるということを表している。, また麻原自身の解説によれば「真理」の意味は、釈迦やイエス・キリストが人間が実践しなければならないものはこうであるという教えを説いたものであるが、その教えの根本であるものを「真理」と呼ぶ。特にチベット仏教や原始仏教の要素をアピールしたため仏教系とされることも多いが、あえて仏教を名乗らなかった理由は、「仏教」という言葉自体が釈迦死後に創作されたものであるからとしている。また真理と密接に関係のあるものが科学である[11][12]。, しかし、実は命名には京都の私立探偵・目川重治が関わっていたという。目川は「松本智津夫」から天理教の全容の調査を依頼され、その調査結果を松本に手渡した。その際、目川があんりきょう、いんりきょう・・・と「あ」から続けていき、「しんりきょう」に至ったという[注釈 2]。「オウム」は目川の家の向かいにあったオーム電機とオームの法則に由来し、目川が「オームなんていいんじゃないか?」と勧めたとされる[13]。後に目川は松本が麻原彰晃であると知った。, 時期は目川の手記では1978-1979年頃、ノンフィクションライターの高山文彦および東京新聞記者瀬口晴義の文献によれば1984年春頃とされている(詳細は「目川重治#オウム真理教」を参照)[14]。高山は勢力を拡大し教団名が市の名前(天理市)にまでなるに至った天理教を自分の夢と重ねていたのではないかとする[15][16]。, 1984年(昭和59年)、超能力開発塾「鳳凰慶林館」を主宰していた麻原彰晃(本名・松本智津夫)は後に「オウム真理教」となるヨーガ教室「オウムの会」(その後「オウム神仙の会」と改称)を始めた。当時は超能力の獲得を目指すアットホームで明るいヨガ教室だった[17]。, この頃、オカルト系雑誌の『月刊ムー』が、このオウムの会を「日本のヨガ団体」として取材、写真付きの記事を掲載していた[18]。麻原はこれらオカルト雑誌に空中浮揚の瞬間と称する写真を掲載したり、ヒヒイロカネについての記事や、『生死を超える』『超能力秘密の開発法』などの本を執筆するなどして宣伝した。, 当時は松本家一家は千葉県船橋市に住み、貧しく家族全員で1つの寝室を共有していた。食事は野菜中心で肉の代りにグルテンを肉状にしたものを食べたり、ちゃぶ台の上にホットプレートを置き、「野菜バーベキュー」を楽しんでいた。この船橋の家には「瞑想室」があり、宗教画が掛けられ棚には仏像が置かれていた。麻原は日に1度は瞑想室にこもり修行をしていた。棚の前にはちゃぶ台があり、麻原はそれを祭壇と呼んでいた。「形は重要じゃない。心が重要なんだ。私にとっては」というのが麻原の口癖だった。後に教団が大きくなってからも、麻原はそれを祭壇として使っていた[10]。, 当時、麻原はヨーガ教室を東京都渋谷区で開いていたため、家にいることが少なかった。たまに帰宅すると強度の弱視のためテレビにくっつくように野球中継を見ていた。1986年ころには世田谷区の道場に住み込むようになりほとんど家に帰らなくなる。たまに麻原が帰宅すると3人の娘たちが大喜びで玄関まで走って行き、姉妹で父を奪い合うような普通の家庭であった。次女は父の帰宅を「太陽のない世界に、太陽が来た」などと表現していた。しかし、妻の松本知子は麻原が滅多に帰宅しないことから精神不安定であり、麻原に向かってなじるようないさかいがあり、麻原はこれにほとんど抵抗をしなかった。3女松本麗華の目には、知子が麻原の宗教を信じているようには見えなかったが、知子は麻原の著書の代筆を深夜まで行っており、後の麻原の著書のいくつかは、知子が書いたものであった[10]。, 麻原は子供に向かって「蚊に刺されると痒くていやだね。でも蚊も生きているんだよ」とか「お釈迦様によれば、私たちは死後生まれ変わり、もしかしたら蚊に生まれ変わるかもしれない」などと話していたが、一方妻の知子は蚊を平気で殺していた[10]。, 1987年(昭和62年)、東京都渋谷区において、従前の「オウム神仙の会」を改称し、宗教団体「オウム真理教」が設立された。同年11月にはニューヨーク支部も設立。, 「真理教」の名前は石井久子以外には「いかにも新興宗教」と不評であり、もっと宗教色を隠さないと一般受けしないという意見もあったが、麻原は「救済活動をする為なのだから真理教にする」と拘った[19]。宗教化後は多額の献金を要求するようになり、ワークも増え、会員の三分の一が脱会した[17][20]。, 1989年(平成元年)8月25日に東京都に宗教法人として認証された(1993年以降の登記上の主たる事務所は東京都江東区亀戸の新東京総本部)。麻原は解脱して超能力を身に付けたといい、神秘体験に憧れる若者を中心に組織を急速に膨張させていく。さらに麻原は自らをヒンドゥー教の最高神の一柱である破壊神シヴァ神あるいはチベット密教の怒りの神「マハーカーラ」などの化身だとも説き、人を力尽くでも救済するこの神の名を利用し目的のためには手段を選ばず暴力をも肯定する教義へと傾斜していく。, 同年にはサンデー毎日で「オウム真理教の狂気」特集がスタートし、オウム批判、オウムバッシングが始まった[21]。, 麻原はチベット亡命政府の日本代表であったペマ・ギャルポと接触し、その助力によって、1987年(昭和62年)2月24日ならびに1988年(昭和63年)7月6日にダライ・ラマ14世とインドで会談した。麻原側は両者の会談の模様をビデオならびに写真撮影し、会談でダライ・ラマ14世が「ねえ君、今の日本の仏教を見てみたまえ。あまりにも儀式化してしまって、仏教本来の姿を見失ってしまっているじゃないか。これじゃあいけないよ。このままじゃ、日本に仏教はなくなっちゃうよ。」「君が本当の宗教を広めなさい。君ならそれができる。あなたはボーディ・チッタ[注釈 3] を持っているのだから」と麻原に告げたとしてオウム真理教の広報・宣伝活動に大いに活用した[22][23]。ペマ・ギャルポはその後まもなくオウム真理教と積極的に対立するようになり、チベット亡命政府に対しても今後は麻原と関係を持たないように進言した。, ダライ・ラマと同様オウム真理教は教団の権威づけに多くのチベットの高僧やインドの修行者と接触し宣伝材料として利用していたが、事件後に行われたマスコミの取材に対して、オウム真理教から接触があった高僧や修行者は軒並み深い関係を否定している[22]。, 1995年4月5日来日したダライ・ラマ14世は記者会見で「(麻原と)会ったことはあるが、私の弟子ではない。彼は宗教より組織作りに強い興味を持っているという印象が残っている。私に会いに来る人には誰でも友人として接している。しかし、オウム真理教の教えを承認してはいない。私は超能力や奇跡には懐疑的だ。仏教は、一人の指導者に信者が依存し過ぎるべきではないし、不健全だ」と語った。この話はオウム真理教が江川紹子と出版社を相手取り損害賠償請求訴訟を行なった際の争点の一つとなったが、判決は「名誉毀損に当たらない」としてオウム真理教の請求を棄却した。江川紹子は「多額の寄付をしてもらえば、普通お礼はするし、多少のリップサービスをすることもある。麻原教祖はそうした相手の反応を利用し、(中略)オウムの権威や信用を高めようとしたのではないか」と推測している[22]。, 1988年10月頃、富士宮市人穴に総本部道場建設[24]。この頃より麻原は体調を崩すことが多くなり、健康面に不安を感じ始め「自分が死んだら、教団をどうするのか」あるいは「私は長くてあと5年だ」「死にたい」などと洩らすようになる。肝硬変や肝臓がんだと大騒ぎになったりもする。高弟の前でも「もう死のうかな」と呟き、新実智光は「お供します」、早川紀代秀は「困ります」、上祐史浩は「残って救済活動をします」と答え、妻の松本知子は「勝手にすれば」と言ったという[10]。3女松本麗華は、この頃から「麻原の死への願望は強まった」と考えている。解脱者が多くなりオウム真理教が世界宗教へと変貌し救済ができるとの真剣な思いがあったが、弟子の修行が思うように進まず、通常通りの方法では人間界が救われないという否定的な認識が麻原彰晃に芽生えたと見ている[10]。, 宗教法人に適用される不課税、税額控除目的に1989年3月1日、東京都に認可申請を行った。しかし、未成年の信者を巡って家族及び被害者の会からの批判によって認証手続きが遅れる。4月24日には麻原が信者200人を引き連れ東京都庁に押しかけ、抗議するという騒動を引き起こした。この認証手続きには被害者の会の家族から依頼を受けた北川石松衆院議員の圧力に対し、教団側は『元弁護士で裁判官だった出家信者』及び『沖縄の参院議員』を利用し、認証手続きを推し進めようとしたことが麻原の第43回公判で明らかになっている[25]。しかし結局、不認可する理由がないことから8月25日、宗教法人認可を受けた。, 1989年の参院選でマドンナ旋風が沸き起こったことから、1990年2月に行われる衆院選に、当初麻原は石井久子をはじめとした女性信者を出馬させる構想を立てたが、その後麻原自身が徳によって政を行い、地上に真理を広めるために1990年(平成2年)には真理党を結成して第39回衆議院議員総選挙へ麻原と信者24人[注釈 4] が集団立候補。選挙に立候補するかどうかはオウムとしては珍しく幹部による多数決が採られた。結果は10:2で賛成派が勝利。反対した2人は上祐史浩と岐部哲也であった[26]。, しかし結果は惨敗し、当時立候補者1人あたり200万円だった供託金として計5,000万円が没収される[27]。, 麻原は自らの権威づけをかねて主要な弟子を引き連れて世界各地の宗教聖地を巡った。1987年には、「麻原の前世が古代エジプトのイムホテップ王であった」ということから、同王が埋葬されているピラミッドの視察目的でエジプトツアーを行った[28]。後に麻原は自著において「ピラミッドはポアの装置だ」と述べた[28]。1989年(平成元年)8月、所轄庁の東京都知事より宗教法人としての認可を得た後、日本全国各地に支部や道場を設置する一方、ロシアやスリランカなど海外にも支部を置いた。ロシアでは優秀な演奏者を集めキーレーンという専属オーケストラを所有、布教に利用した[29]。日本では1989年(平成元年)に約1万人程度の信者が存在していたとされる[30]。麻原は1991年(平成3年)を「救済元年」とし(教団内でこれを元号の如く用いた)[要出典]、マスメディアを中心とした教団活動を活発化させた。, 1992年11月12日には、釈迦が菩提樹の下で悟りを開く瞑想に入ったとされる聖地、インド・ブッダガヤの大菩提寺にある「金剛座」に座り、地元の高僧に下りるように言われたが従わなかったため、警官に引き摺り下ろされた[31]。麻原は日本では盛んにテレビ・ラジオ番組に露出し、雑誌の取材を受けたり著名人との対談などを行った。このほか講演会開催、ロシアや東南アジア諸国・アフリカ諸国などへの訪問や支援活動、出版物の大量刊行などを行った。図書館への寄贈・納本も行っており、麻原の著書を初めとするオウム真理教の出版物は現在も国立国会図書館等に架蔵されている。特に若い入信者の獲得を企図し、麻原が若者向け雑誌に登場したり、1980年代後半から行っていた大学の学園祭での講演会を更に頻繁に開催するなどした(東京大学、京都大学、千葉大学、横浜国立大学等)。1992年(平成4年)にはサリン事件後広範に知られるようになるパソコン製造などを行う会社「株式会社マハーポーシャ」を設立し、格安パソコンの製造販売を行うようになった。, ロシアでは、1992年4月1日にオウム真理教放送が開始される。日本語の他、英語やロシア語で放送を行っていた。当初は「エウアゲリオン・テス・バシレイアス」という番組名で、放送局名や放送時間、周波数等の告知すらなく、同年4月半ばからは「オウム真理教放送」と名乗る。ギリシア語では「エウアンゲリオン」が正しい発音だという聴取者の指摘により、8月1日の放送分より「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」に変更された。制作は富士山総本部で、録音テープをモスクワに空輸し放送していた。電波の受信状態が悪かったため12月1日からは富士山総本部のスタジオからの生放送に変更された。1992年6月15日にはモスクワ放送の英語ワールドサービスの時間枠を使用し、日本時間の5時30分と13時30分からそれぞれ約30分間、全世界に向けての英語放送を開始。1992年9月1日からは「マヤーク」という約25分間のロシア語放送が開始された。11月19日にはモスクワのテレビの2×2にて「真理探求」という番組が開始される[32]。, 一連の事件が強制捜査を受けたことから、ロシア当局は放送の中止を決め、日本時間の1995年3月23日の放送が最後となった。翌24日もスタジオからは番組を発信したが、ロシア側が放送中止を決めたため、電波には乗らなかった[32]。, 番組内では、麻原彰晃作曲とされる多くのオウムソングが流され、「超越神力」、「エンマの数え歌」、「御国の福音」第1楽章の一部や「シャンバラ・シャンバラ」などのほか、モスクワ大学での麻原彰晃説法の様子も放送された。麻原の3人の弟子として、アナウンサーのカンカー・レヴァタ(杉浦実)、ダルマヴァジリ(坪倉浩子)、アシスタント役にはマンジュシュリー・ミトラ(村井秀夫)が登場した。麻原夫人の松本知子(ヤソーダラー)が、かつてはアンチ宗教だったという衝撃的な発言にはじまり、夫人の考え方が変わってゆく様子なども流された。英語放送では麻原の英語のメッセージのほか、当初は朝のパーソナリティーをマイトレーヤ(上祐史浩)が、昼の放送はヤソーダラー(松本知子)が受け持っていた[32]。, 1995年3月22日、オウム真理教に対する警察の強制捜査が行われ、翌23日にはこれに対する麻原自らの反論が放送された。音質から、第4サティアンのスタジオではなく、他の場所での収録と推測されている。1995年2月からは、麻原が「わたしは、君たちがわたしの手となり、足となり、あるいは頭となり、救済計画の手伝いをしてくれることを待っている さあ、一緒に救済計画を行なおう そして、悔いのない死を迎えようではないか」と呼びかけるメッセージを送り続けていたが、3月23日の放送の最後にもこれが放送されオウム真理教放送最後のオンエアとなった[32][33]。, 1988年(昭和63年)、在家信者死亡事件が発生。麻原は「いよいよこれはヴァジラヤーナに入れというシヴァ神の示唆だな」とつぶやいたという。隠蔽のため、1989年(平成元年)には男性信者殺害事件を起こし殺人に手を染める。, 翌年の選挙戦など教団の活動の障碍になるとして、前年の1989年11月4日、オウム批判をしていた坂本堤弁護士とその一家を殺害(坂本堤弁護士一家殺害事件)。中川智正が殺害の際プルシャ(オウムのバッジ)を落としたためオウム犯行説が一時広まるが、任意の失踪の可能性があるなどとされこの頃はまだ事件性すら確定されていなかった。, そして1990年、麻原は真理党を結成して第39回衆議院議員総選挙に出馬。選挙の際には信者が麻原のお面やガネーシャの帽子をかぶり、尊師マーチなど教祖の歌を歌うといった派手なパフォーマンスなど奇抜な活動が注目を浴び、修行の様子なども雑誌やテレビで報道され、徐々に知名度が上がっていく。この時には公職選挙法で定められた時間帯を大きく超える16時間/日に及ぶ街頭宣伝運動を繰り広げ、麻原彰晃の写真入りビラやパンフレット、雑誌を選挙区中に撒き、麻原そっくりのお面を大量に作って運動員に被らせた[34]。これは違法で警視庁から警告を受けたが、運動にかり出された元信者は「もしも誰かから注意されたりしたら、『これは布教活動です』と言って逃れるように」と指示を受けていた[34]。また他の候補者のポスターを剥がす、汚損するなどを麻原自身が勧め、深夜に信者を使って他の候補者を中傷するビラを配布させた[34][35]。, 結果はこの選挙で最も得票の多かった麻原でさえ1,783票[35] であり、惨敗を受け麻原は「票に操作がなされた」と発言し、「今の世の中はマハーヤーナでは救済できないことが分かったのでこれからはヴァジラヤーナでいく」として、ボツリヌス菌やホスゲンによる無差別テロ計画(オウム真理教の国家転覆計画)を指示する[36]。このことからもこの選挙がオウム真理教の被害者意識をより一層高め、非合法活動を更にエスカレートさせたといわれている。, 麻原は選挙での惨敗を受け、オウム真理教の国家転覆計画を実行に移し始めた。教団内ではかねてから、現代人は死後三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に転生してしまうためこれを防がなくてはならない[37] などと教え込まれていたため、信者は麻原に従って武装化に協力していった。, 1990年4月、「オースチン彗星(英語版)が接近しているために、日本は沈没するが、オウムに来れば大丈夫」と宣伝し、在家信者だけでなく家族まで参加させ行き先も伝えないまま石垣島に連れて行き石垣島セミナーを開催した[38][39]。, セミナーの当初の目的は、オウム真理教が計画をしていたボツリヌス菌・ボツリヌストキシン散布によるテロから、オウムの信者を守ることであった。しかし村井秀夫、遠藤誠一らはボツリヌス菌の培養に失敗をしたためテロは実行されなかった[40]。, 参加者によると、参加費は30万円であったが、会場はきちんと予約されておらず、天候が悪かったこともあり、「現在の東欧動乱は、1986年のハレー彗星の影響であり、今年のオースチン彗星の接近によって何かが起こる」とただそれだけの話があっただけで行事は予定を繰り上げてお開きになった。しかしこのセミナーで多数の出家者を獲得し、選挙での惨敗後に脱会者が続出した教団を蘇生することには成功した。これはその後「ハルマゲドンが起こる、オウムにいないと助からない」と危機感を煽って信者や出家者をかき集める方法の原点になった[38]。, 1990年(平成2年)5月、日本シャンバラ化計画の一環として熊本県阿蘇郡波野村(現在の阿蘇市)に進出するが、地元住民の激しい反対運動に会う。波野村進出の目的のひとつは武装化拠点の確保であった[40]。しかし村民はオウムの進出に反発し、反対運動が激化した。村の反対運動の背景には、村長派と反村長派との対立があったともされる。また右翼団体なども扇動され激しい攻防があった[41]。, そして1990年10月22日、オウム真理教波野村の土地売買に関する国土利用計画法違反事件で強制捜査を受け、早川紀代秀、満生均史、青山吉伸、石井久子、大内利裕など教団幹部が続々と逮捕された。しかしオウムは熊本県警内の信者から情報を入手しており、強制捜査も1週間延期されていたものだったので、武装化設備を隠蔽することができた[42]。, 後の1994年、結局波野村はオウムが5000万円[43] で手に入れた土地を和解金という形式で9億2000万円[44][45] で買い戻すことで合意、オウムの大きな資金源となった。, 国土法違反事件の影響もあり、1991年(平成3年)〜1992年(平成4年)はホスゲンプラント計画や生物兵器開発などの教団武装化を中断、テレビや雑誌への出演や文化活動などに重点を置いた「マハーヤーナ」路線への転換を図った。, だが1992年頃より、「宇宙衛星から電磁波攻撃を受けている[46]」などといった麻原の妄想、幻聴が現れ始める。「シヴァ大神の示唆では仕方ないな」とつぶやき、「内なる声」が自らの進みたい道とは違うことに苦しみ始め「いっそ死んでしまいたい」と言ったのを3女麗華が聞いている。麗華は麻原を統合失調症などの精神疾患に罹患していたのではないかと推測している[10]。, 1993年(平成5年)前後から再び麻原は教団武装化の「ヴァジラヤーナ」路線を再開[36]。武力を保有するため、オカムラ鉄工を乗っ取りAK-74の生産を試みたり(自動小銃密造事件)、NBC兵器の研究を行うなど教団の兵器の開発を進めた。1993年以降は麻原がオウム真理教放送等を除くメディアに登場することはなくなり、国家転覆を狙った凶悪犯罪の計画・実行に傾斜してゆく。, この中で土谷正実、中川智正、滝澤和義らの手によってサリンなど化学兵器の合成に成功。1993年より、これを利用した池田大作サリン襲撃未遂事件、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件を起こし、敵対者の暗殺を試みた。さらに第7サティアンにおいてサリン70トンの大量生産を目指した(サリンプラント建設事件)。, また生物兵器の開発も再開し、遠藤誠一、上祐史浩らが炭疽菌を用いて亀戸異臭事件などを起こしたが、こちらは成功しなかった。, この頃には、アメリカから毒ガス攻撃を受けていると主張するようになり、車には空気清浄機を付け、ホテルでは大真面目に隙間に目張りをしていた。ヘリコプターが通過する際には、毒ガスだと言って車に駆け込み退避するよう命じる有り様だった[10]。中川智正によると、この被害妄想は1993年10月頃に第2サティアンの食物工場から二酸化硫黄を含む煙が出た事故を、毒ガス攻撃と思い込んだことから始まったという[47]。, 過激化とともに布施の強化が図られ、社会との軋轢が増すにつれ、教団内部に警察などのスパイが潜んでいるとしきりに説かれ、信者同士が互いに監視しあい、密告するよう求められるようになる。麻原は信者に対して「教団の秘密を漏らした者は殺す」「家に逃げ帰ったら家族もろとも殺す」「警察に逃げても、警察を破壊してでも探し出して殺す」と脅迫していたという[48]。教団内の締め付けも強くなり、薬剤師リンチ殺人事件、男性現役信者リンチ殺人事件、逆さ吊り死亡事件などが発生した。, 1994年からオウムでは違法薬物をつかったイニシエーションを次々と実行するようになり、LSDを使ったイニシエーションが在家信者に対しても盛んに行われた(LSDは麻原自身も試している)[49]。費用は100万円であったが、工面できない信者には大幅に割引され、5万円で受けた信者もいる[50]。LSDを使った「キリストのイニシエーション」は出家信者の殆どに当たる約1200人と在家信者約200〜300人、LSDと覚醒剤を混ぜた「ルドラチャクリンのイニシエーション」は在家信者約1000人が受けた[51]。, また、林郁夫によって「ナルコ」という儀式が開発された。「ナルコ」は、チオペンタールという麻酔薬を使い、意識が朦朧としたところで麻原に対する忠誠心を聞き出すもので、麻原はしばしば挙動のおかしい信者を見つけると林にナルコの実施を命じた。麻原は林に、信者達の行動を監視するよう命じ、信者が自分の仕事の内容を他の信者へ話すことすら禁じていた。[要出典]林郁夫はさらに「ニューナルコ」と呼ばれる薬物を併用した電気ショック療法を使い始め、字が書けなくなったり記憶がなくなっている信者が見つかっている。他にも、村井秀夫によりPSIという奇妙な電極付きヘッドギアが発明され、教団の異質性を表すアイテムとなった。, 洗脳は出家信者の子どもにも及び、PSIを装着させたり、LSDを飲ませたり、オウムの教義や陰謀史観に沿った教育をしたりしており、事件後に保護されたオウムの子どもたちが口を揃えて「ヒトラーは正しかった、今も生きている」などと語っている光景も目撃されている[51][52]。, 麻原本人は言葉巧みに若い女性信者を説得し、左道タントライニシエーションと称して性交を行っており、避妊も行っていなかったため妊娠・出産に至る女性も数多く現れた。, 1994年6月27日、東京都内のうまかろう安かろう亭で省庁制発足式が開かれ、これにより教団内に「科学技術省」「自治省」「厚生省」「諜報省」などといった国家を模したような省庁が設置された。, 3女松本麗華によれば、1994年6月に麻原の体調が悪化し、教団運営ができなくなる恐れが出たために、省庁制が敷かれたという。各省庁の責任者や大臣が大きな権限を持つようになり、3女は、11歳にして法皇官房長官に任命される。任命時に麻原は麗華に「お前はもう11歳だから大人だ」と言ったが麗華がふてくされていると「法皇官房は、私のことを一番に考える部署なんだ。お前は長官だから、私の世話をしっかり頼む」と言った。, 同日、オウムの土地取得を巡る裁判が行われていた長野県松本市において、裁判の延期と実験を兼ねてサリンによるテロを実行。死者8人、重軽傷者600人を出す惨事となる(松本サリン事件)。当初はオウムではなく第一通報者の河野義行が疑われ厳しい追及が行われるなど、後に捜査の杜撰さが指摘された。またマスコミによる報道被害も問題になった。, 1994年(平成6年)と1995年(平成7年)には特に多くの凶悪事件を起こす。そのうちいくつかの事件では当初より容疑団体と目され、警察当局の監視が強化された。オウム内ではビデオ「戦いか破滅か」や雑誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」などで危機感を煽った[53]。, 「信徒用決意」という決意文にはこうある。「泣こうがわめこうがすべてを奪いつくすしかない」「身包み剥ぎ取って偉大なる功徳を積ませるぞ」「丸裸にして魂の飛躍を手助けするぞ」「はぎとって、はぎとって、すべてを奪い尽くすぞ」[54]。さらに、決意Ⅲ-2にはこうある。「たとえ恨まれようと、憎まれようと、どんなことをしてでも、真理に結び付け、救済することが真の慈愛である」「救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ」「そして、まわりの縁ある人々を高い世界へポワするぞ」[55]。これらの教義は、信者の監禁事件へと発展していき、1994年には教団は拉致・監禁を平然と行うようになり、ピアニスト監禁事件、宮崎県資産家拉致事件、鹿島とも子長女拉致監禁事件といった多数の拉致監禁事件を起こし、サティアンに作られた独房や監禁用コンテナ、一日中麻原の説法テープを聞かせる部屋(ポアの間)に被害者を監禁した。, さらに土谷正実が猛毒VXの合成に成功し、これを用いて敵対者の暗殺を計画、駐車場経営者VX襲撃事件、会社員VX殺害事件、オウム真理教被害者の会会長VX襲撃事件を起こした。麻原は「もうこれからはテロしかない」[56]、「100人くらい変死すれば教団を非難する人がいなくなるだろう。1週間に1人ぐらいはノルマにしよう」[56]、「ポアしまくるしかない」[36] などと語っていた。, 松本サリン事件後に「サリン事件は、オウムである」などと書かれた「松本サリン事件に関する一考察」という怪文書が出回り、さらにオウムを追っていたジャーナリストの江川紹子が何者かに毒ガス攻撃を受ける(江川紹子ホスゲン襲撃事件)など、オウムと毒ガスの関係性が噂され始めた。1994年11月には強制捜査接近の噂迫が教団内に流れ、サリンプラントの建設を中断するなどの騒ぎとなっていた。そして1995年(平成7年)1月1日、読売新聞が上九一色村のサティアン周辺でサリン残留物が検出されたことを報じ、オウムへのサリン疑惑が表面化、教団は「上九一色村の肥料会社が教団に向けて毒ガス攻撃をしているため残留物が発見された」と虚偽の発表をするとともに、隠蔽工作に追われることとなった。, だが麻原は1995年1月17日の阪神・淡路大震災で強制捜査が立ち消えになったものと考え[36]、1995年2月28日、東京都内で公証人役場事務長逮捕監禁致死事件を起こす。この事件で教団信者松本剛の指紋が発見されたことにより、ようやく警視庁は公証人役場事務長逮捕監禁致死事件で全国教団施設の一斉捜査を決定したのであった。3月15日には霞ケ関駅で自動式噴霧器が発見されたこともあり、毒ガスによる抵抗を想定して、陸上自衛隊から戦闘用防護衣450着と化学防護衣50着を借用するとともに、3月19日には警視庁機動隊員300名と捜査一課捜査員20名が朝霞駐屯地に派遣され、防護服の装着訓練を受けていた[57]。, しかし教団はそれを察して警察より早く動き、強制捜査を遅らせるため1995年3月20日に地下鉄サリン事件を決行。13人の死者と数千人の負傷者が発生する大惨事となった。, ただし、唯一地下鉄サリン事件が決定されたリムジン謀議の内容を詳細に証言している井上嘉浩によると、2014年2月4日の平田信公判において「サリンをまいても、強制捜査は避けられないという結論で、議論が終わっていた。しかし松本死刑囚は、『一か八かやってみろ』と命じた。自分の予言を実現させるためだったと思う。」[58]、2015年2月20日の高橋克也の公判において「『宗教戦争が起こる』とする麻原の予言を成就させるために、事件を起こしたと思った」と証言しており、自身の「ハルマゲドン」の予言を成就させるためという説もある[59]。, いずれにせよ強制捜査延期には至らず、事件2日後の3月22日には、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)を中心とした教団本部施設への一斉捜索が行なわれ、サリンプラント等の化学兵器製造設備、細菌兵器設備、散布のためのヘリコプター、衰弱状態の信者50人以上等が見つかり、オウム真理教の特異な実態が明らかになった。以降、同事件や以前の事件への容疑で教団の幹部クラスの信者が続々と逮捕された[60]。, 強制捜査の際、どこの現場でも「捜索令状をじっくり読む」「立会人を多数要求する」「警察官の動きをビデオや写真に撮る」という光景が見られた[61]。また報道陣に対してもしつこくカメラを向け、突然の捜索に驚き慌てる様子は全くなく、事前に準備され訓練された行動のようであった[61]。実際に弁護士で信者の青山吉伸から「絶対に警察の手に渡ってはいけない違法なものに限り持ち出し、露骨な持ち出しをしないように」「令状呈示のメモ及び録音で時間を稼ぎ、私服警察官に対しては警察手帳の呈示を求める」「水際で相手を嫌にさせて、捜索意欲をなくさせる」「排除等の暴行に及んで来たらビデオで記録化する」「施設の電源を落とす」「内鍵をして立て篭る」「勝手に触ると修法が台なしになると主張する、ほとんどのものを修法されているとする」という通達と、警察との想定問答が極秘に出されていた[61]。もちろんこれは刑法104条の証拠隠滅罪に該当する[61]。オウムの犯罪行為は一部の信者以外には秘密であったうえ、「オウムは米軍に毒ガス攻撃されている被害者」「不殺生戒を守り虫も殺さぬオウム信徒が殺人をするはずがない」と教わっていたため、事件を陰謀と考える信者の抵抗は大きかった。, 強制捜査後、上祐史浩らがテレビに出演して釈明を続け、サリンはつくっていないなどと潔白を主張した。一部の幹部は逃走し、八王子市方面に逃げた井上嘉浩、中川智正らのグループは村井秀夫から捜査撹乱を指示され、4月から5月にかけて新宿駅青酸ガス事件、都庁爆弾事件を起こした。また、その村井秀夫は1995年4月23日に東京南青山総本部前に集まった報道陣を前にして刺殺された(村井秀夫刺殺事件)。4月15日予言などオウムに関するデマも飛び交った。, 1995年(平成7年)5月16日には再び、自衛隊の応援を得て付近住民を避難させた上で、カナリアを入れた鳥かごを持つ捜査員を先頭に、上九一色村の教団施設の捜索を開始。第6サティアン内の隠し部屋に現金960万円と共に潜んでいた麻原彰晃こと松本智津夫(当時40歳)が逮捕された。また、証拠品の押収や、PSI(ヘッドギア)をつけさせられた子供たちを含む信者が確保された[62]。, 東京地検は麻原彰晃こと松本智津夫を17件の容疑で起訴した[63]。1996年1月18日時点で、一連の事件に関与して逮捕された信者は403名、そのうち起訴183名[64]。, 教団は村岡達子代表代行と長老部を中心として活動を継続していたが、1995年(平成7年)10月30日東京地裁により解散命令を受け[65]、同年12月19日の東京高裁において、即時抗告が[66]、翌1996年(平成8年)1月30日の最高裁において特別抗告がともに棄却され[67]、宗教法人法上の解散が確定した。, 1996年(平成8年)3月28日、東京地裁が破産法に基き教団に破産宣告を下し[68][69]、同年5月に確定する。1996年(平成8年)7月11日公共の利益を害する組織犯罪を行った危険団体として破壊活動防止法の適用を求める処分請求が公安調査庁より行われたが、同法及びその適用は憲法違反であるとする憲法学者の主張があり、また団体の活動の低下や違法な資金源の減少が確認されたこと等もあって、処分請求は1997年(平成9年)1月31日公安審査委員会により棄却されている。, 破防法処分請求棄却後により教団も活動を継続し、「私たちまだオウムやってます」と挑発的な布教活動や、パソコン販売による資金調達などを行った[70]。一方、一連の事件については「教団がやった証拠がない」とし、反省や謝罪をせず、被害者に対する損害賠償にも応じなかった。, この頃教団は、当時黎明期であったインターネット上に 公式サイト を開設

ベルムズ 3年a組 ニッポンノワール, 麹蔵 秋葉原 ホットペッパー, Lineタイムライン 画像保存 できない, アフィリエイト ビジネス 資格, ワード 画像 削除, Photoshop 拡大縮小 比率,